OJTと言う言葉があります。”On Job Training.“、簡単に言うと「仕事を通じてわからないところは自分で勉強しろ」って事です。
この行為自体はごもっともと思うのですが、最近”OJT”と言う言葉を盾にして教育をほったらかしているのではないかな?なんて思うのです。
こんな記事を見てそう思ってしまいました。
参考
日立製作所 社員3万人で公募異動147人、FAは15人だけ…機能しない“社内転職市場”――パターナリズムのキャリア支配:MyNewsJapan
僕が入社した1993年にはOJTと言う言葉は日本では一般的ではありませんでした。だからと言って「指示がないのでわかりません」とかいう人はいなかったですし、それに対して「それは自分で自己啓発して勝手に勉強しろ」と言う文化もなかったです。
実に自然に先輩に教えてもらい、自然に自分で調べて勉強したものです。
今はかなり偉くなってしまった人が僕の新人時代に上司だった時に「2回までは丁寧に教える。でも3回目からは厳しく教えるよ」と言う言い方を多用していた覚えがあります。
言葉の履き違えと”ゆとり世代”とか”悟り世代”と呼ばれる世代の入社。これが悪い方向にはまってしまったんじゃないかな?って。
僕もOJTには大賛成ですし、そうあるべきだと思ってます。
でも、上司として部下にOJTを意識してもらうにも”動機づけ”を怠りすぎなのではないかな?って。
一応、”僕の部下”と言う表現はちょっと穿った考えかもしれませんが「考え方」と「調べ方、勉強の仕方」は教えてきたつもりです。流石に手取り足取り最後まで指導していたら成長しませんので…。
なのである程度までしっかりと教えて「任せられるな」と思った段階でOJTをしてもらうようにしています。
仕事を任せると言う事は、その結果(成果物)の責任は任せた側に来るものだと思っています。当たり前なんですけれど。
なので、どの位理解して勉強したか?と言うのを定期的に確認するようにしています。それを繰り返して完全に任せる、と。
そこまでいけば僕が依頼しなくても能動的に動いてくれるんですよね。そこから自身で興味を持った部分や現在の業務に関してOJTしてもらえたらなぁと思うんですよね。
僕はシステムエンジニアですが、プログラムをOJTで学んでもらう事は非常に難しいと思っております。下手すると変な癖がついたコーディングをしてしまうかもしれないからです。基本的にプログラムに正解はないのかもしれませんが、読みやすいコードと読みにくいコードというのは存在します。
個人事業主で自分でソースを書いて自分でローンチするようなプログラミング(コーディング)であれば別に良いですが、組織としてプログラムを書くときは他の人が読んでもわかりやすいコーディングの方が保守性が高まります。
プログラムにもいろいろな言語があるのでなんとも言えませんが、最初に変な癖つけちゃうとちょっとキツいんです。それをOJTとして作ってもらい、後で上司から「なんでこんなに読みにくいコーディングなの?」って言われても正直「知らんがな」ってなってしまうのではないでしょうか?
つきっきりで教えるのは時間・リソース的に厳しいものがあると思います。かといって突き放すのも問題。
ちゃんとバランスを取って導入部分を教えて、それからOJT。それが大事なんだろうな、なんて思います。