撮り鉄なる人がいます。電車を高級カメラ(凄いレンズとか)で撮影する訳です。廃線や廃車になって最後の運行などの時に写真をパシャパシャ撮る人たちですね。
その写真自体は資料写真として価値のあるものになるかもしれませんが、写真に撮るって事はファインダー越しにそれを観ているわけですよね。
そう言う人って結果の作品が重要で、肉眼で目に焼き付ける事をしてないのではないでしょうか?って思います。
さて、先日、中学生の卒業ライブの動画を撮りました。コロナで学校が休校になって発表会ができないので近くの個人経営のカラオケ店で20人位の同級生を入れての発表。
んで、僕は部外者(楽器提供やセッティングで参加)なので、資料映像としてファインダー越し(と言ってもiPhoneですが)に演奏を見ていたんですけどちょいと目を実際の演奏に向けてみたらやっぱり良いんです。
純粋に録画じゃなくて見れば良かったなって。お客さんはちゃんと肉眼で見れて良かったなって。
動画に収めるってのは”記録に残す”作業ですが実際に見るのは”記憶に焼き付ける”って事なんだろうなぁって。記録と記憶の違い。
僕の元カノは写真を撮ること自体は好きだったんですけれど、「日付を入れて欲しい」ってよく言ってました。その当時はスマホじゃなくて普通のカメラだったので日付を入れる機能はあったんですけれど、僕は”作品”として残したかったので反対してました。
日付を入れると思い出として風化したときに日時まで思い出せちゃうんですけれど、「あれ?この写真いつ頃だったかなぁ?そういえば…」って思い出す作業が好きだったりするタイプなんです。
ライブとかは撮影禁止なので目に焼き付けます。やっぱり肉眼で見るのは良い。僕は目が悪いのでメガネをかけても免許更新の視力検査にギリギリって感じなんですけれど。その時ばかりは「あぁ、目が良い人は良いなぁ。うらやましいなぁ」と思ってしまいます。
椎名林檎さんの歌に下記のようなものがあります。
あなたはすぐに写真を撮りたがる
あたしは何時も其れを厭がるの
だって写真になっちゃえば あたしが古くなるじゃない
ー椎名林檎 ギブス
この歌詞は「そうだよなぁ」と思う反面、やっぱり若いうちは写真を残しておきたいなぁ的な気分もあるんですよね。
そう、僕が35歳を超えた頃から記念写真とか撮らないようになりました。それは「もう若くないし写真を残す年齢でもないよね」って思ったからだと思います。
風景写真や料理の写真はちょっと撮りますが(ブログに使う為ってのもあります)集合写真とかを撮る以外は自分の写真って撮ってないなぁってなってるんですよね。なんかもう自分の写真はいいやって感じ。
だから写真撮らせてって言われても「別に撮らなくていいよ」って思ってしまうんですよね。あれ、なんか話が逆になってきたかも…
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ある一定の年齢までは写真を残すべきだと僕は思うんです。でも、もういい歳になったらもう自分の写真いらないね。って。みんなが見る僕が本当の僕なんだなって。
だから僕は若い中学生達の記録を残して、観客は目で記憶に焼き付ける行為ってのは理にかなっているのかもって思うんです。
行きつけのBARとかで「写真撮ろうよ!」的な話になった時って僕は写真を撮る側に回るんですよね。もう自分の記録はいらないから。
年々老い行く自分、これは目に焼き付けるだけにして欲しいです。できればあなたに…