とあるきっかけで過去の写真を見直す機会があった。
僕はmacとiPhoneの組み合わせにしてからずっとmacで写真を保存しており、もう10年以上になる。
なので、引っ越しする前に住んでいた場所や3.11の震災前後も記録も残っている。
で、写真を見直して(目的の写真を探して)いたんだけれど、写真アプリに表示される日付をみて、ここ最近の5年間、僕としては何も変わってないって自覚した。楽しかったなぁ、って。
今でも、いや今でこそより人生を楽しんでいるのは事実なのだけれど、やっぱり5年間って月日が流れているのは変えられない。人間は老いるから老けるのは仕方がない。生きている人は例外なく老ける。
矢向と言う僕が住む街は、5年前くらいから(僕の中では)何も変わってない、いや『何も変わってほしくは無かった』。行きつけの店は今日も常連客で賑わっており、たまにイベントがあるので参加する、と。
40代なりたてだった僕も気がつけば40代後半に入った。
5年前の矢向の写真を見てて、「あれ?この店、5年前からあったんだ」みたいな記憶(いや記録と言った方が正確か)が蘇ってくる、僕としてはここ1〜2年、長くても3年前くらいだと思っていた事が、実に5年以上経過している訳だ。
「昨日の事のように思い出す」ってのはこう言うのを言うのだろうか?
僕にとっての“矢向”は、5年前でストップしていて、唯一、大好きだったBARが閉店しただけ…って感じ。
でも、ふと思う時がある。『おいおい現実を見ろよ』、と。勿論自分自身に対してである。
行きつけのBAR経由でギターをあげた中学生の少年は立派な高校生になりギターを猛練習しながら受験勉強をしている 。
僕は過去にしがみつきすぎているのでは?って。
いや、誰だって心の中には『楽しかった過去』がある。『辛かった過去』だってあるだろう。ただ、それにしがみ付いているかどうかだけの話。
自分では変わっているつもりでも、心のどこかに『楽しかった5年前』が継続しているんじゃないのかな?って。
それを騙し騙ししながら、楽しかった頃の矢向の思い出に浸ってるのでは?って。
エヴァの劇場版では”空白の14年間”と言う表現が使われる。主人公が宇宙空間に閉じ込められている間、日常は14年間過ぎており色々な変化が起きていると言うもの。
よく考えたら令和も3年になる。
コロナが流行りだしてからもう1年以上経っている訳だ。コロナ禍になってから2回目の夏だ。
『時代だよね』とシニカルに話しながらも『いつまでも変わらない楽しい時間』に引き摺られていたのは他でも無い僕自身。
僕は今年首のヘルニアにかかり1ヶ月ちょっとで15kg痩せるなど、人生が変わるような肉体的、精神的な変化があった。
それを踏まえた上で僕自身、しっかりとした軸を持って生きてるつもりだ。
この町で楽しく遊べる人が減ってしまった。「今度サウナ一緒に行きましょうよ」とか言える場も無くなってしまった。そういう繋がりのLINEグループがあるのかもしれないが、僕は知らないし、あまりそういう馴れ合いは得意ではない。
でも、不思議と孤独だとは思わない。
それは皮肉にも都会の為せる技なのかも知れない。
周りの誰よりも年上の存在なのに、みんな変わらないと信じられる事が既に頭がハッピーセット。
街にも代謝がある。引っ越してくる人もいれば、引っ越していなくなる人もいる。改築だってあるだろう。
それを引き止める権利なんて誰も持ってない。
ゲラヘー、プチョヘンザ。
僕は僕の道を行く。