僕はキミが好きだった。入社試験で会社から用意された横浜のビジネスホテル。僕がそこへ向かったときに、ホテルの入り口に一人で立っていたほっぺたが赤い女の子。それがキミ。
程なくして僕たちは会社に入る。1993年春。高校卒で100人ほどいた入社志望者は50人になっていた。
僕は北海道から上京して会社の寮に入った。高校を卒業して初めての寮生活。横浜の寮に日本中の田舎から出てきた18歳が集められた。そう僕たちは18歳だった!
タバコもお酒も飲んだけど、確かに僕たちは18歳だった!
会社に行くとみんなが集まる。キミもいた。入社した50人のうち、女性はわずか3人だった。1993年。パソコンも一人一台支給されていない時代。システムエンジニアになろうと思った女性は少なかったのだろう。
高卒だった、18歳だった。会社は遊び場だった。新人教育と言う名のモラトリアム。
その時の空気感はよく覚えている。少し湿った、真っ暗な夜。神奈川県横浜市金沢区能見台。
みんな集まって飲んでいた。カラオケを歌った。そして沢山、沢山、話していた。
僕たちは高校生以上、社会人未満。大学を経験していない僕たちの最高のモラトリアム。僕は髪の色を茶色にした。
月曜9時のドラマは『ひとつ屋根の下』。
酒井法子が勤めている会社のロケ現場が僕たちが毎日通っている会社(ビル)だと知ってずいぶんと興奮して、「大きな会社に入ったのだな」と思ったものだ。
「そこに愛はあるのかい?」
僕には密かな恋心があった。Jリーグが始まった年、寮の部屋に贔屓のチームの横断幕を貼るのが流行っていた。
バブルは弾けていた。でも、それでも必死にもがき続けようとしている日本がそこにあった。
僕たちは何も知らなかった。テレビを見て、お酒を飲んでタバコを吸ってギターを弾いていた。
携帯電話もないし、車を持ってるやつもいなかった。でも合コンはした。合同コンパ。彼が彼女を、彼女が彼を見つけるパーティー。キミの友達のツテから合コンは始まる。そうして、友達の友達へ。
毎週のように週末は横浜で飲んでいた。僕がカラオケを歌い出した年、1993年。Mr.Childrenが『抱きしめたい』を発表した年。
サザンオールスターズの”SUICA”と言うCD-BOXにプレミアがついていた時代。僕たちは無敵だった。
…八景島シーパラダイス。金沢八景の近くにこのアミューズメントパークができた年、それが1993年。僕たちは寮から歩いて20分、八景島シーパラダイスがみんなの”お昼の”デートスポットになっていた。
八景島シーパラダイスで遊んで、京急線で杉田へと向かう。杉田の居酒屋でブレイクして新杉田へと酔い覚ましをして横浜へ。ハマボウルでボーリングをしながら誰かが近くのカラオケボックスへと予約を入れる。
そんな時代だった。気がつけばユニコーンは解散してしまった。
“素晴らしい日々”は僕たちには始まりの音楽であった。
新宿は怖い街だった。川崎は工業地帯だった。
僕たちは横浜で遊んで、横浜で育った。
ビブレに行き、ジーンズメイトで服を買う。ビブレの地下一階にある桂花ラーメンで熊本ラーメンと出会った頃、家系ラーメンとはまだ出会っていなかった。
赤い電車、京急線が僕たちの愛馬だった時代。緑や紫のスーツがまかり通ってた時代、それが僕の1993年だった。
…未完